サッカーと(子どもたちの)日常生活、勉強、そしてその他すべての教育には、驚くほど多くの共通点があります。先日、そのつながりを考えるうえで非常に興味深い話を伺いました。
あるJリーグクラブの下部組織が行ったヨーロッパ遠征に帯同した方からの話です。ヨーロッパでは、中学年代までは徹底的に戦術を教えるのが主流とのことでした。
例えば、スペースを見つける動き方や作り方、そもそもサッカーがどんなゲームで、どう攻めてどう守るべきかといった基本的な考え方です。それらは無数のパターンとして存在し、若いうちに徹底して学ぶといいます。
そして高校年代になると、コーチ陣は選手たちに自由を与えます。自分の技術や発想を存分に生かし、自由にサッカーをさせるのです。その結果、基礎として習得した戦術の上に、それぞれの発想が加わり、オリジナリティのあるパスやフェイント、動きが生まれます。それでもチームメイト同士は基盤となる考えを共有しているため、次にどう動くべきかを互いに理解し合える。
こうして、独りよがりなパフォーマーではなく、試合に勝つため、相手を翻弄するための本当の意味でのテクニックが生きてくる――そんな話でした。
この話は元日本代表監督の岡田武史さんも語られていました。岡田さんは、「日本サッカーが次のステップに進むためには、全く別のアプローチが必要だ」と述べられていました。
現在の日本では、まず個人技術を徹底的に磨き、その後、高校年代あたりで戦術を学ぶというスタイルが一般的です。しかし、岡田さんは、その考え方を根底から変えるアプローチを提案されていました。
私自身、この考え方を聞いたとき、現代の学校教育と重なる部分があると感じました。
昨今、自由を尊重する教育が重視されています。個性や自由、そして個人の考え方を最優先する教育方針が推進されています。それ自体は非常に価値のあるものであり、尊重されるべきです。しかし、その手法を導入する時期については、再考の余地があると感じています。
小学校年代では、自由や個性を伸ばす前に、人生や人間のベースとなる普遍的な真理をみんなで共有する時間を重視することが重要です。そして、年代が上がるにつれて、個性を尊重する学びの時間を徐々に増やしていく。そのほうが、自由を与えられた本人もその自由をより活かしやすくなります。
なぜなら、基盤がないまま自由を与えられても、子ども自身が何をしたらよいのか判断できなくなるからです。その結果、何もしないか、好き勝手に行動するかのどちらかに偏ることが多くなるでしょう。大人が期待するような探究心を持ち、自ら進んで取り組む子どもは、決して多くはないと私は思います。
また、本人の中に正解の軸がない状態で、他人が「それはいいね」「それは違う」と評価をしても、軌道修正を図ることは難しくなります。
だからこそ、一定の基準を設け、それを伝えるために多少の強制力を伴う教育も必要だと考えます。そして自由を与える場合は、その目的や意図を明確にし、ゴールを共有することが重要だと思います。そうすれば、ヨーロッパのサッカー育成のように、本質の理解に基づいた上で成り立つ個性や創造性が活きる教育が待っていると信じています。
さらに、そこで僕が思う最も重要なものが、基盤を教える立場にある親の教養だと思っています。子どもたちと向き合うために、自分も含めた大人自身が教養について改めて学び直す必要があると痛感しています。